初めに言があった

2012年1月7日 

 

 

初めに言(ことば)があった。 

言(ことば)は神と共にあった。 
言(ことば)は神であった。 
この言(ことば)は、初めに神と共にあった。 
万物は言(ことば)によって成った。 
成ったもので、言(ことば)によらずに成ったものは何一つなかった。 
言(ことば)の内に命があった。 
命は人間を照らす光であった。 
光は暗闇の中で輝いている。 
暗闇は光を理解しなかった。 

(中略) 

言(ことば)は世にあった。 
世は言(ことば)によって成ったが、 
世は言(ことば)を認めなかった。 

・・・・・・・・・・・・・・・ 

ヨハネによる福音書の冒頭部分。 

今日、ものすごーく久しぶりに教会に行って、 
ものすごく感動した。 
教会の礼拝とか、牧師の説教とかじゃない、 
この聖書の言葉に、ものすごく感動した。 
ホンモノに出会ったような、ズシンとした感動だった。 

「初めに言(ことば)があった」って言われても、 
わけのわからない言葉が並んでいると思われるかもしれない。 
でも、ホメオパシーを学んでいる立場からすると、 
この言葉はすごい。まさに、真理をついている、 
としか言いようがないのだ。 

「言(ことば)」とは、もともとの意味では、 
Logosとか、Ideaとか、そういうことのはずだ。 

「万物は言(ことば)によって成った。 
 成ったもので、言(ことば)によらずに成ったものは何一つなかった」 

つまり、どういうことかというと、 
初めに、Ideaがあったのである。 
何か、物質があるとか、そういうんじゃなくて、 
それ以前に、その物質が物質たる所以である、 
その「こころ」があったのである。 
その「こころ」が、形となり、物質となり、 
私たちの前に現れている。 
かくいう私たち自身も、その「こころ」の現れとして、 
形なり、物質なり、を得ている。 

レメディーは、さまざまな物質を、薄めて、振って、を 
繰り返してできる、ホメオパシー的な薬剤だ。 
薄めて、振って、を繰り返すことによって、 
また、その溶液が心身に及ぼす影響を知ることによって、 
私たちは、何をしようとしているのか。 
それぞれの物質の根底にある、 
その「こころ」に近づき、 
その「こころ」を知ろうとする、 
ということをしているのだ。 

一方では、それぞれの物質が、 
神によってどういう特性を与えられているのか、 
という「こころ」を。 
もう一方では、私たち人間が、 
病として体現し、表出してしまう、その「こころ」を。 

けれど、物質の「こころ」と、人間の「こころ」とは、 
本来、違うものだ。 
人間の「こころ」というのは、本来は、物質のそれのように、 
縛られたものではない、いろんなあり方ができるはずのものなのだ。 
それなのに、どこか、何かの物質のように存在してしまっている。 

人間には人間の「こころ」というものがある。 
人間が、その人間の「こころ」でいられるとき、 
何が起きるかというと、「命」が起きるのだ。 

「言(ことば)の内に命があった。 
 命は人間を照らす光であった。」 

人が、本当の人間の「こころ」に従って生きるとき、 
何が起きるだろう。 
命のスパークリングが起きるのだ。 
生き生きする! 
この「生き生きする感じ」というのが、 
人が、人間の「こころ」として生きているか、 
何か別の状態に陥っているかどうかの、重要なバロメーターだ。 
人間が、本当の人間の「こころ」に従って生きているとき、 
生き生きする感じ、わかるだろうか、 
それが「命」なのだ、「光」なのだ。 
そういうことが、この短いセンテンスの中に、凝縮されている。 

「光は暗闇の中で輝いている。 
 暗闇は光を理解しなかった」 

ここで、思い出してみたいのが、『神との対話』という本だ。 
そこには、なぜ世界が生まれたのか、その理由が書かれている。 
もともと、「すべて」もしくは、「無」があったのである。 
「すべて」というのは、それ以外には何も存在しないことであり、 
ということは、「無」であるのと、同じことなのだが、 
「すべて」もしくは「無」であるところの何かには、 
Ideaがあった。 
愛とは何か、悲しみとは何か・・・いろんなIdea、 
すべての概念だけはあったのである。 

だけど、この「すべて」もしくは「無」であるところの何かは、 
それを「体験したく」なった。 
なぜならば、それを「体験」しないことには、 
本当に理解したことにはならないからだ。 
愛がどういうことであるか、悲しみがどういうことであるかを、 
実体験として「解る」ことができなかったからだ。 

だから、この「すべて」もしくは「無」であるところの何かは、 
自分を分解した。 
いろんな物質、いろんなもの、いろんな命に姿を変えて、 
その概念を、実体験として感じる旅に出たのだ。 

だからこそ、そのものたちは、一度、 
この「すべて」もしくは「無」であるところの何かである状態を、 
忘れることになった。 
その概念がわからない状態でなければ、 
それが「わかる」状態にはなれないから。 

そうやって、少しずつ少しずつ、私たちは、 
わからないところから、わかるところに至る、 
旅を続けている。 
それがイエスの旅であろうと、 
それよりずっとプリミティブに見えるような旅であろうと、 
無駄な旅は一つもない。 
なかなかわからない、という体験も含めて、 
すべての旅が、 
わかる、ことができるようになるための、 
オンリーワンの道のりだからだ。 

ここで、さっきの、 
「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」 
という言葉に戻ると、 
暗闇という言葉は、仏教の「無知無明」という言葉に、 
置き換えられると思う。 
「わからない」状態。私たちはそんな暗闇の中に置き去りにされている。 
でも、そんな中で、私たちは「光」になる、 
つまり「生き生きとスパークリングできるようになる」 
可能性も与えられている。 

キリスト教ではその「光」こそ、イエス・キリストだと言っているけれど、 
そんなことじゃない、私たち一人一人の中に、すでにもう、 
「光」はポテンシャルとして在る。 
イエスだって、別に、「自分だけが神の子だ」と言ったわけじゃない、 
「私たちはみんな神の子だ」と言っていたのだ。 
イエスの言葉がこれだけ多くの人に感銘を与えたのも、 
それがイエスの専売特許だったからじゃない、 
イエスが言ったことが、いろんな人の心の中に、確かにあったから、 
ああ、本当だ、というふうに広まったのだろう。 
真理とは、そのようなものだと思う。 
誰かが持っていて、誰かが持ってないものではない、 
すべての人が根底のところで、本当にそうだなと「わかる」もの。 

私たちの多くは暗闇の中で生きているかもしれない。 
でも、ここで注意したいのは、 
別に暗闇が悪いわけじゃないってことだ。 
暗闇も必要なんだ、だって、暗闇があるからこそ、 
光がよりよく理解できる。 
でもさ、暗闇ばっかりじゃなくて、 
光によって生きることもできるよ、と。 
光に従って生きると、生き生きするし、楽しいよ、と。 
やってごらんよ、ほんとでしょ、と。 
それを、イエスは伝えようとしたんだと思う。 

イエスが言ったことを「宗教」にしてしまうと、 
入信する、しない、という選別が始まってしまう。 
「信じれば救われる」とか、「教会は通ったほうがいい」とか、 
何かしらそういった、白か黒かの世界になってしまうけれど、 
この世に生きている限り、私たちはみんな暗闇を抱えていて、 
また、その暗闇のおかげで少しずつ、 
光の何たるかを学びながら、前進していける。 
一歩、一歩。 
何かを信じることにしたら、はい、おーわった、 
なんて世界じゃなくて、 
一歩、一歩、 
いつも、いつも、少しずつ、少しずつ、 
近づき続けている。 

暗闇が悪いんじゃない、 
全部光になれ、と念じたら、全部光に変わるわけでもない。 
私たちに与えられているのは、 
一歩一歩、丁寧に、 
暗闇と光との間を縫って、 
学びを続けていく、ということ。 

「言(ことば)は世によって成ったが、 
 世は言(ことば)を認めなかった」 

本当の人間の「こころ」というのは、私たちのただなかに、眠っている。 
なぜなら、私たちが、まぎれもなく、 
その「こころ」から、生まれた存在であるから。 

でも、私たちは、なかなか、その「こころ」を認めない。 
否定し続けているのである。 
でも、否定することが悪いことかというと、そうも言えない。 
否定し続けながら、私たちはよく、同時に学ぼうとしているからだ。 
否定が強ければ強いほど、学びへのベクトルは加速する。